映画『二重被爆』シリーズの公式サイトです

作品紹介

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山口彊さんの被爆体験について、まずお伝えしたい。

1945年8月6日広島に投下された原子爆弾。

山口彊さんは、当時29歳。三菱重工業長崎造船所で造船設計技師を勤めていた。妻と生後3か月の息子を長崎に残し、その年5月に広島造船所へ出張に出向いた。

出張期間は3カ月、長崎に戻ることになった日の前日、8月6日朝山口さんは造船所への出勤途中の芋畑で被爆、閃光を咄嗟に避けたが、左半身に大火傷を負い、その時左耳の聴覚を失った。爆心地から3キロの地点だった。

長崎から一緒に来ていた同僚2人と共に、破壊された市内の寮の庭で過ごし、翌朝、長崎に向かう避難列車が出ると聞き、焼け野原となった広島の町を横断することにした。焼死体が散乱し、被爆後の火災により焼けおちた建物、墜ちた橋を避けて川を渡った。川に浮かぶのは夥しい死体、山口さんは「人間の筏」だと表した。

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山口 彊さん

 

8月7日午後、避難列車で長崎に向かう。火傷の痛みと高熱により、乗車すると気を失ったという。翌8日昼に長崎に到着。火傷の手当てをし、全身包帯で巻かれた姿で両親、妻子と再会した。そして8月9日、広島壊滅の報告のため造船所に出勤し、上司に話している最中、2度目の閃光を見ることになった。山口さんは「きのこ雲に広島から長崎まで追いかけられて来たんじゃないかと思った」と語った。

山口さんは戦後、原爆症に悩まされ、胆嚢摘出、白血球減少症などに苦しみながら、家族の生活を守るため生き抜いた。代用教員、造船技師への復職。いつも心にあったのは、2度の被爆体験の語り部となることだった。しかし世間の偏見・差別のため、語ることは控えてきたのだが、2005年2月原爆症が原因で最愛の息子、捷利(かつとし 59歳)さんが全身を癌に蝕まれて死去。

山口さんは自らを「生かされた命」と考え、語り部となることを決意し、捷利さんの意向を受けた長女・年子さんが彊さんをサポートすることになった。

山口さんは、記録映画「二重被爆」出演後、精力的な活動を開始した。国際連合での上映会と講話では、国連軍縮委員会の関係者が集まった。帰国してからは地元長崎において、中学・高校生に「2度の被爆体験と反核の思い」をバトンタッチしたいと訴えた。2008年を迎えた頃、胃ガンの進行が判明。しかし山口さんは請われれば、講話に出かけた。米国からやって来た高校生には英語で語りかけた。「原爆投下は正しかった」という教育を受けている彼らは、山口さんの話を聞き、感動の涙を流した。

2009年8月、山口さんは吐血し、緊急入院した。8月9日、長崎平和祈念の日は、病床のベッドで手を合わせて祈っていた。病状が進む中で、山口さんにとってぜひ会いたい人がいた。映画監督ジェームズ・キャメロン監督。「タイタニック」や「アバター」で世界一の興行収入を上げる名監督にこの年5月、手紙を書き送っていたのだ。「広島発最終列車」の取材で山口さんのもとを訪ねた作家、チャールズ・ペレグリーノさんが、橋渡しをしてくれていた。

ジェームズ・キャメロン監督

ジェームズ・キャメロン監督

12月22日、キャメロン監督と作家は入院中の山口さんを見舞った。
「あなたの稀有な体験を世界に伝えるため、映画を製作したい」と監督は山口さ
んに伝えた。山口さんは、

「I have done my duty」(私は役目を果たしました)と監督に話し、3人はしっかり
と握手を交わした。

「One for All,All for One」(一人は皆のために、皆は一人のために)
山口さんはすべての人達に送りたい遺言、メッセージだったのです。

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私達はこの映画を通じて、人種や言葉の違いを超えて、原爆の非人道性と反
核平和、核のない世界を作ろうと、死の直前まで訴え続けた山口さんの意思を
国内外に伝えて行きたいと思います。

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